広告業界のマーケティングではターゲットとなる顧客の性別・年令別の区分を20歳〜34歳の女性をF1層、35歳〜49歳の女性をF2層、50歳以上の女性をF3層と呼んでいる。男性はM1層、M2層、M3層である。
そして各層の情報源は大きな特徴を持っている。
6月4日付日本経済新聞の解説によれば、主婦の(F1層〜F3層)やシニア男性(M3層)は家庭でテレビを見る時間が多く、主にテレビのワイドショーを情報源としており、20〜30代の男性(M1層)はテレビよりネットを情報源としているという。
公益財団法人・新聞通信調査会が実施したメディアに関する全国世論調査によると、20〜30代で情報源として欠かせないメディアとしてネットをあげた男女はともに78%にのぼり、他のメディアを大きく引き離している。
情報源としては、テレビやネットの他に「新聞」、「週刊誌」もあるが、新聞情報や週刊誌情報はテレビで取り上げられた時点で、テレビやネット情報として拡散するから情報源としてはテレビ、ネットであるとも言える。
結論として、主婦やシニア男性にメッセージを届けるにはテレビのワイドショーが適しており、20〜30代男性にはネットが最適だということである。
ところで、子供・ベビー服専門店の西松屋チェーンが6月に発表した3〜5月期決算は、税引き利益が前年同期比19%増の22億円だった。
原因は春に気温が急上昇したことで、春物や初夏向け子供服の販売が好調だったことにあるが、業績悪化で東芝がスポンサーを降板した人気テレビ番組「サザエさん」に4月からCM放送を開始したことも追い風となり、来店者が増えたことによる(6月15日付日本経済新聞)。
F1層(20歳〜34歳の女性)がテレビを情報源としていることを見事に証明している。
]]>3月19日付日本経済新聞のコラム「経営の視点」の渋谷高弘編集委員の解説によれば、中国が自国市場および中国が進める広域経済構想「一帯一路」の沿線国を舞台に、日米欧をしのぐ「知財強国」への道をひた走っているという。
かつて首位だった日本を置き去りにして2016年の中国の特許出願件数は通信関連など133万件で世界シェアの4割を超え堂々の首位で「特許出願大国」となっている。ちなみに日本は31万件である。また各種の知財訴訟に至っては年間13万件で、日本は約5,000件で比較にならないという。
以前、中国の新幹線が開業した時、山東省青島から済南間に乗車し、車輛があまりに日本の新幹線と酷似しているのに驚かされたものだが、これなども肝心の新幹線に関する特許を製造元の川崎重工業が海外で出願しておらず、技術移転先の中国の新幹線メーカーがそっくり模倣したものであった。
そして、「知財」は工業製品に限らない。
政府は「2019年に農産物の輸出額1兆円」の目標を掲げてきたにもかかわらず、17年の輸出額は約8,000億円にとどまるもようである。
背景には、欧米の大手流通業が、「食の安全」を求める世界の消費者ニーズに対応して、肥料や農薬の管理から労働環境まで細かく規定する農産品の国際認証「グローバルGAP」の取得を農業者に要求し、世界ではすでに約18万の農業者が取得しているにもかかわらず、日本ではまだ約400件にとどまっていることもあるが、農産品の「知財管理」も大きな原因だ。
例えば、韓国や中国は日本で開発されたブドウ「シャインマスカット」やイチゴ「とちおとめ」などを無断で栽培・交配してアジア各国に輸出しているが、種苗に特許を与える品種登録を海外でしていないため、栽培を差し止めるのは難しいのが実態であるという。
農水省は韓国が日本のイチゴを無断で栽培・交配したことで最大220億円の輸出機会の損失があったと推計している。(2月9日付日本経済新聞)
国内市場が縮小するなか、人口増や経済成長が続く海外に活路を開かなければ、日本の成長はないが「知財」はまさに生命線である。
]]>
世界経済に大きな影響を及ぼす中国経済は低賃金を生かした成長モデルを脱し、産業をいかに高度化できるかが大きな課題である。
経済には「中所得国のわな」と呼ばれる経験法則がある。世界銀行が2007年の報告書で指摘した法則で、中所得国の水準に達した国が、低賃金労働等に頼る成長モデルから転換できず、なかなか先進国入りできない状況が続くことで、1人当り国内総生産(GDP)が1万ドルを突破できるかが一つの目安とされている。
低所得の国は、先進国の生産技術を模倣し、低賃金を生かした低価格の輸出攻勢で成長できる。成長率をさらに引き上げるには貯蓄率を高め、それを投資に向けて「物量攻勢」をかければ良い。これまでの中国の高成長は、まさに、その物量攻勢によるものだった。
しかし、ここにきて中国の物量攻勢は限界に達しており、これまでのような高成長率は見込めない。
それには、製品の質を高め、先端商品を自ら開発する必要がある。そのためには新たな商品やサービスの開発、生産・販売方法の刷新などイノベーションが鍵となるが、社会、経済のすべてを共産党が支配する体制の下で、活発なイノベーションは可能か、と竹森教授は疑問を発する。
もっとも、将来の有望性が明確な、電気自動車、ロボット、超高速通信、量子コンピューターなどの分野では、中国は巨大経済の強みを生かし、得意の物量攻勢をそのままイノベーションに転用することもできると竹森教授は解説する。
果たして中国は「中所得国のわな」を脱し、IMFが試算するように2019年あるいは2020年に1人当りGDPが1万ドルを突破して先進国の仲間入りをすることができるのであろうか。IMF の推計で2016年の中国の1人当りGDPは8,123ドルで世界の75位。ちなみに日本は中国の5倍弱の38,883ドルで22位。米国は57,608ドルで8位。1位はルクセンブルクで104,095ドル。1万ドルを超える国は65ヵ国ある。
写真はウィキペディアより、習近平国家主席
日本のクレジットカードや「Suica」などの電子マネーに近い、中国のスマートホン(スマホ)決済が急拡大し、2016年に総額で660兆円と日本の国内総生産(GDP)を上回ったという。(11月28日付日本経済新聞)
中国のスマホ決済はアリババ集団系の「アリペイ(支付宝)」とテンセント系の「ウィチャットペイ」が2強で、延べ12億人が登録している。
日本の「Suica」を含む交通系電子マネー全体の利用件数は今年7月時点で月1億7,000万件強だが、「アリペイ」の利用件数は昨年10月時点で1日1億7,500万件で、実に30倍以上の開きがある。
「アリペイ」を使うには実名や身分証番号の登録が必要だが、さらに勤務先や学歴など個人情報を追加入力すると利用者の信用力を950点満点で評価する「芝麻信用」というサービスがあって、利用者の信用が増す仕組みだ。
「芝麻信用」は公共料金を含めた支払い履歴や交友関係まで評価基準に含めており、信用力が高いと様々な特典が付き、評価を高めたい中国の消費者はこぞって個人情報を登録する。月1回更新されるボーイフレンドの「芝麻信用」の評価が気になるという中国人女性も最近増えているという。
ところで、今年8月、中国の中央銀行の中国人民銀行は2018年中をメドに、すべての電子決済を人民銀行系の決済ステム経由で行うよう通知を出した。
このことで、中国政府は国民の経済活動を補足することが可能となる一方で、丸裸になった個人情報を国家が管理するという不気味な社会になる訳だ。
個人情報を国家が管理する中国社会
日本のクレジットカードや「Suica」などの電子マネーに近い、中国のスマートホン(スマホ)決済が急拡大し、2016年に総額で660兆円と日本の国内総生産(GDP)を上回ったという。(11月28日付日本経済新聞)
中国のスマホ決済はアリババ集団系の「アリペイ(支付宝)」とテンセント系の「ウィチャットペイ」が2強で、延べ12億人が登録している。
日本の「Suica」を含む交通系電子マネー全体の利用件数は今年7月時点で月1億7,000万件強だが、「アリペイ」の利用件数は昨年10月時点で1日1億7,500万件で、実に30倍以上の開きがある。
「アリペイ」を使うには実名や身分証番号の登録が必要だが、さらに勤務先や学歴など個人情報を追加入力すると利用者の信用力を950点満点で評価する「芝麻信用」というサービスがあって、利用者の信用が増す仕組みだ。
「芝麻信用」は公共料金を含めた支払い履歴や交友関係まで評価基準に含めており、信用力が高いと様々な特典が付き、評価を高めたい中国の消費者はこぞって個人情報を登録する。月1回更新されるボーイフレンドの「芝麻信用」の評価が気になるという中国人女性も最近増えているという。
ところで、今年8月、中国の中央銀行の中国人民銀行は2018年中をメドに、すべての電子決済を人民銀行系の決済ステム経由で行うよう通知を出した。
このことで、中国政府は国民の経済活動を補足することが可能となる一方で、丸裸になった個人情報を国家が管理するという不気味な社会になる訳だ。
]]>毎年、その年に話題となった新語・流行語を決定する年末恒例の『2017ユーキャン新語・流行語大賞』(現代用語の基礎知識選)が12月1日に発表され、今年の年間大賞に「インスタ映え」と「忖度」の2語が選ばれた。
「インスタ映え」は、写真共有SNSのインスタグラムに投稿するために写真にこだわる現象から生まれた言葉で、インターネット社会ならではの、新語といえよう。「忖度」は、東京都議選で自民党を大敗に追い込むほど政治的インパクトを与えた安倍総理をめぐる国有地払い下げの森友学園問題で森友学園の理事長が国会で発言した言葉に端を発する。
ところで、大賞にはノミネートされなかったが、興味を持ったのが、やはり森友学園問題で安部総理の国会答弁中の「悪魔の証明」なる言葉である。
「悪魔の証明」とは、訴訟において所有権の証明責任を負う者がローマ法以来、前の持ち主から前の持ち主へと鎖のように無限に繋がっている取得のいきさつを証明することがほとんど不可能に近いことから、証明が不可能なことの例えとして使用されている。
そこで、思い起こされるのが、芥川龍之介が大正11年(1922年)に発表した短編小説の「藪の中(やぶのなか)」である。
藪の中で男の死体が見つかり、殺人と強姦という事件を巡って役人の尋問に対して4人の目撃者と3人の当事者が告白する証言がそれぞれ異なることから、真相が分からなくなることを称して「藪の中」という言葉が生まれている。
ちなみに、名誉毀損の民事訴訟で、米国では真実性の立証責任は裁判を起こした原告側にあり、英国では被告側に立証責任があるという。日本も英国と同様だが、日本の場合、被告側が真実性の証明に失敗しても真実と信じるに足る、合理的な根拠を示せば免責され、米英の折衷だという。(12月17日付日本経済新聞のコラム「春秋」)
真実とはなかなか難しいものである。
写真はウィキペディアより「藪の中」作者 芥川龍之介氏
しかも、その中小企業はほとんどがファミリー企業である。折しも11月下旬から12月上旬にかけて日本経済新聞のコラム「やさしい経済学」で8回にわたって長谷川博和・早稲田大学教授が「ファミリービジネスの強みと課題」と題してファミリービジネスについて注目すべき解説を行っている。
世間には、ファミリービジネス、つまり「同族経営」の経営体質は古く、早く近代的経営に移行すべきという風潮も相変わらず根強くあるが、主要先進国の経済や雇用に占める「同族経営」の割合は高く、近年、「同族経営」への関心は大いに高まっているという。
世界には創業以来100年以上続く「同族経営」の会社は5万2000社あり、200年以上となると8,785社であるが、日本はそのうち3,937社と、44%を占めており、世界一の「同族経営」大国なのである。ちなみに帝国データバンクの調査では100年以上の会社は2万8972社である。
もっとも長谷川教授が定義する「同族経営」とは、持ち株比率でみた株式の所有比率など形式的基準にとらわれることなく、「創業家の一族が所有あるいは経営に携わる企業」である。従ってトヨタ自動車や米国のウォルマートも「同族経営」ということになる。
そして、「同族経営」の強みとは、?長期的視野での経営?迅速な意思決定である。一方、弱みは?同族間の紛争?ガバナンスが効かず経営者の意思決定を止められないこと?銀行借入に依存する傾向?優秀な人材採用の難しさであるという。
これらの弱みを克服し、強みを徹底できれば「同族経営」は「非同族経営」に対して、企業価値が高まり優位に立てると長谷川教授は指摘する。
]]>国歌は近代西洋において生まれ、日本が開国した幕末の時点において外交儀礼上欠かせないのとなっていた。つまり国歌の必要性はまず何よりも外交儀礼の場において軍楽隊が演奏するために生じたのである。
今村氏によれば、フェントンは70年(明治3年)に薩摩藩から「君が代」を短期間で作曲するよう頼まれ、最初のバージョンを作曲したが、フェントン作曲の「君が代」は、西洋音階のメロディーと日本語の歌詞が合わないとされ、80年(明治13年)に雅楽の音階による現行曲に改められた。
以後、国歌として歌われ、1999年(平成11年)に「国歌及び国歌に関する法律」で正式に日本の国歌として法制化され、今日に至っている。
英国では少数派のスコットランド人の軍人を父に持つフェントンは英国の王立陸軍音楽学校で学び、日本で初めて西洋音楽の理論を、楽譜の書き方から作曲法まで体系的に教えた人で、日本の海軍軍楽隊で吹奏楽を教えていた。現行の「君が代」の作曲者として名前のある雅楽の演奏家の奥好義という人もフェントンに洋楽を学んだ一人であるという。
通説では、これまで現行曲の改訂にフェントンは全く関わっていないとされていたが、今村氏の研究で改訂にフェントンが主体的に関わった可能性があることが分かったという。つまり、フェントンが成し遂げられなかった改訂を教え子が完成させたわけで、「君が代」の作曲者はフェントンといっても言い過ぎではないだろう。
国歌の成立を例にとっても、近代国家日本の成立過程で、日本がいかに多くのことを西洋から吸収しようとしていたかが良く分かる。
ちなみに、「君が代」の歌詞は10世紀はじめに醍醐天皇の勅命により国家の事業として編纂された「古今和歌集」の中の祝いに際して詠まれた22首の短歌の一つで、作者は文徳天皇の第一皇子惟喬親王に仕えていた木地師で当時は位が低かったため詠み人知らずとして扱われていた人物である。
写真はウィキペディアより「君が代」の楽譜
十数年前、青森に出かけた時、東北新幹線の岩手県二戸(にのへ)あたりに漆の木がやたらに多いのが気になっていたが、12月4日付の日本経済新聞のコラム「列島追跡」でその謎が解けた。
コラムによると、国産漆の75%を二戸市の浄法寺漆が占めるという。
中国やインドを原産とする漆の日本列島における歴史は古く、漆の利用は縄文時代から開始され、現存する最古の漆塗り製品とされている北海道函館市の垣ノ島遺跡で出土した漆塗りの副葬品は約9,000年前のものであることが明らかになっている。
日本では古くから植栽されていたようで樹液から塗料、実から蠟(ろう)が作られる。中国産と日本産が良品であるという。
漆の木の表皮に切り傷をつけると、傷口から乳白色の樹脂を分泌するので、採取して原料とする。
漆は苗木を植えてから採取できるまで約15年かかるようで1本の木から200グラムほどの樹液を採取した後は伐採し、新たに植林しなければならないという。二戸では代々その営みが続けられてきたということだ。
武田信玄を中心に武田家や家臣団の逸話や甲州流軍学を記述し、江戸時代に出版された『甲陽軍鑑』には武田信玄が織田信長に漆を贈ったという逸話が記されており、今も津軽漆や会津塗、輪島塗、越前漆器、紀州漆器など全国に10数ヵ所の漆器産地があるなど、日本は、「黄金の国」ならぬ「漆の国」なのである。
古くから天然の接着剤や塗料などとして日本に根付いてきた漆だが、近年は、化学塗料の普及や生活スタイルの変化で漆器は日常生活から遠のいている。
16年の国産漆器は1.2トンほどで、国内で流通した約44トンのほとんどは価格が5分の1と安い中国産であるという。
ところが、2018年度から文化庁が国宝や重要文化財の建造物を修復する際には、全て国産漆を使用するように通知したことから、国産漆が注目されている。
コラムによると、二戸市で地元の岩手銀行の行員などが、支援して毎年2万本の苗木を植えて行く方針だという。
コラムは、かつて漆器を使っていた和食が世界遺産となったことで、和食とともに漆器も世界にPRできないか、「漆の国」の復活を期待している。
写真はウィキペディアよりウルシの木
最近、ある人からこの言葉を教えてもらった。なかなか意味深くあじわいのある言葉である。
江戸幕府を開いたとき、家康および家康の周りを固めていた知恵者たちは、この考えを基にして大名のふるい分けをした、と山本一力の『べんけい飛脚』(新潮文庫)という小説の中に出てくる言葉である。
関ヶ原の合戦で奮闘した山内一豊の軍功を家康は大いにたたえ、4倍の加増をしたが、外様の山内家を信用せず、遠江(静岡県西部)から土佐(高知)への移封を命じた。「禄ある者は任うすく」である。家康ならではの巧みな人心掌握術といえる。
会社経営においても、必ずしも肩書きが、収入と直結する訳ではない。経営陣の場合、業績が悪ければ、社員より収入が少ない場合もある。「任ある者は禄うすく」である。もっとも、業績が悪くなっても経営陣の給与を下げない会社もある。そんな会社はやがて行き詰まるだろう。
家康および家康の周りを固めていた知恵者たちが一体どこでこのような考えを持つに至ったのか興味があって、出典がないか探してみたが、適当なものがなかなか見つからなかった。
ただ、中国の『漢書・朱雲伝』に「尸位素餐(しいそさん)」という言葉があるのがわかった。高い位にあるだけで職責を果たさず、高禄をはんでいることをいう。
秦が滅亡した後、項羽との戦いに勝利した劉邦によって建国された長安を都とする前漢の学者であり、政治家の朱雲は、9代の成帝の時代に、成帝の学問の師であった元丞相の安昌候張禹が目に余るほど尊重されていることに対して、「今の朝廷の大臣は主を正すことも民を助けることもできず、高いくらいにあって高禄をはんでいるだけだ」と進言したため、成帝は「小物が上を非難し、公衆の面前で皇帝の師匠に恥をかかせるとは死罪である」と怒り、連行させようとしたが、朱雲は宮殿の欄干につかまって抵抗したため、欄干が折れてしまった。
朱雲は連行されたが、辛慶忌という将軍が朱雲を殺すべきではないと命をかけて成帝をいさめたため、怒りもとけて許された。成帝は欄干を修理する時、直臣を顕彰するため、欄干は交換せず、元のものと繋ぎ合わせるように命じたという。厳しく叱るという「折檻」という言葉の起こりである。
写真はウィキペディアより徳川家康
]]>クラシック音楽と同様にピカソやかつて新宿の安田美術館でゴッホの「ひまわり」の絵を見ても特別の感動を覚えた訳でもないし、絵画に深い知識や関心はないが、10数年前に偶然NHKの「日曜美術館」という番組で田中一村の絵を見た時は少なからず興味を持った。絵画に興味を覚えたのは、高校の「倫理社会」の教科書か何かでムンクの「叫び」という題の絵を見た以来のように思われる。
田中一村は1908年、栃木県に生まれ、1926年、東京美術学校(現東京美術大学)日本画科に入学したが、同年6月に中退。同期には後に日本画壇を代表する画家となる東山魁夷や橋本明治らがいた。
中退後は南画を描いて一家の生計を立てるが、その後南画と決別。千葉に移住して数回の日展や院展に出品するもいづれも落選し、53才の1958年に中央画壇への絶望を深め、奄美大島に渡った。奄美大島では大島紬の染色工として細々と生計を立てながら生涯絵を描き続けたが、1977年、無名に近い存在のまま69才でこの世を去った。
没後に地元新聞やNHKの番組で紹介され、その魅力あふれる南国の自然を題材とした西洋画を思わせる独特の画風が注目を集めることとなる。まさに孤高の画家なのである。
偶然、その番組を見たのであった。
放送当時、たまたま奄美大島の笠利町農協から特産品のグアバ茶についての広告依頼があり、奄美大島を訪問する機会がたびたびあったので、田中一村というより、奄美大島のナレーションに気付いて番組を見たのである。
2001年には笠利町の「奄美パーク」の一角に「田中一村記念美術館」がオープンし、現在、確認されている作品約600点のうち、寄託品も含めて450点を収蔵しているという。出張を利用して何度か訪れた。
東京・池袋の事務所には東京巡回展のおりに購入した田中一村の絵の複製を数枚飾っている。
写真は東京・池袋の事務所にある田中一村の絵の複製
おそらく毎月出版される新刊書は数百冊になるであろう。
そこで、毎週日曜日に掲載される各新聞の書評欄を本選びの参考にしている。中でも他紙と比較して読売新聞の書評欄は優れていると常々思っている。
しかし、11月26日付読売新聞のB・ヴァイエ著『マッドジャーマンズ ドイツ移民物語』の旦敬介明治大学教授の書評は少々いただけなかった。
トランプ米国大統領を誕生させたり、イギリスのEU離脱などの背景には少なからず移民問題があったことを考えれば、1980年代に東ドイツに出稼ぎ労働者として渡った2万人ほどのモザンビークの若者たちの中の苦渋に満ちた3人の人生を描いたこの作品は誠に時期を得た本の選定であったと思うが、旦教授のモザンビーク人労働者たちは「日本に来る一部の外国人技能実習生と、北朝鮮の国外労働者の境遇を合わせもつような存在だったといえる」という「一部の」ということわりはあるものの「技能実習生」と「北朝鮮の国外労働者」を同一視した表現には大いに違和感を覚えたのである。
国際貢献の一環として途上国への技術移転を目的に途上国の外国人を期間限定で労働者として受け入れる「技能実習生」は22年前の1995年に制度化され、現在、75職種で27万人が来日している。11月1日にはあらたに「介護職」も追加された。団塊世代が後期高齢者になる2025年には30万人が不足すると厚労省が予測する「介護職」に技能実習生が果たす役割は決して小さくないであろう。
果たして旦教授は「技能実習生」についてどの程度実態をご存じなのであろうか。
少なくとも「給料の半分以上」を国の外貨稼ぎのために天引きされたというモザンビーク人労働者や給料を国家管理されている北朝鮮の外国人労働者と給料を全額受け取る「技能実習生」が異なる存在であることだけは確かである。
写真はAmazonより『マッドジャーマンズ ドイツ移民物語(B・ヴァイエ著)』表紙
71年前の昭和21年に「経営の神様」とまで称された松下電器産業(現パナソニック)の創業者である故松下幸之助氏が創立したPHP研究所とは、月刊誌『THE21』、同『VOICE』などと長年にわたり広告出稿の取り引きがあり、11月21日、東京・銀座の帝国ホテルで開催されたPHP研究所主催の第26回山本七平賞贈呈式にお招きを受け、出席した。
山本七平賞は、日本および日本人とは何かを探求し、今なお読書界に強いインパクトを与え続ける「山本学」と称される山本七平の業績を顕彰するとともに新たなる思索家の誕生を期待してPHP研究所が設けたものである。
今年の奨励賞には昭和61年生まれという31才の若き昭和史研究者である岩井秀一郎氏の『多田駿伝 「日中和平」を模索し続けた陸軍大将の無念』(小学館)が選ばれた。
選考理由は、主人公の多田駿は日中戦争の発端となった盧溝橋事件の直後から一年余りのあいだ日本陸軍の中枢である参謀本部次長として実質、最高責任者の地位にあったが、その間、事変の不拡大を唱え、早期の日中和平に奔走したという史実に著者の岩井氏が注目したことである。
一般には陸軍というと戦争拡大論者と思われているが、当時の近衛文麿首相や広田弘毅外相、さらに平和志向が強かったはずの米内光政ら海軍指導部などの戦争拡大論に押し切られ、多田は無念の涙をのむことになったという。
選挙委員の中西輝政京都大学名誉教授が述べておられるように「悪玉」であったはずの陸軍の統帥中枢が実は最大の和平勢力であったというのは、歴史の大いなる皮肉というほかはない。
来年は日中平和条約が締結されて40周年の節目であるのも感慨深く、受賞者の岩井氏が、日本大学文理学部史学科を卒業後、一般企業に勤めながら、研究を続けているというのも意義深い今年の山本七平賞であった。
写真は11月21日に銀座の帝国ホテルで開催された第26回山本七平賞贈呈式
唯一の有名人といえば、小学校の教員をしていた父の元に毎年届く年賀状の童謡作家巽聖歌であった。
明治38年に岩手県紫波郡日詰町(現紫波町)に生まれた巽聖歌は昭和30年当時、50代で東京都日野市に住んでおり、田舎の小学校低学年生には年賀状の「東京都」の住所が遠い異国のようにまぶしかったのかもしれない。もちろん巽聖歌が童謡「たきび」の作者であることは知っていた。
「たきび」 巽聖歌作詞・渡辺茂作曲
かきねの かきねの まがりかど
たきびだ たきびだ おちばたき
「あたろうか」「あたろうよ」
きたかぜぴいぷう ふいている
さざんか さざんか さいたみち
たきびだ たきびだ おちばたき
「あたろうか」「あたろうよ」
しもやけ おててが もうかゆい
東京・豊島区在住の鈴木三重吉が創刊した童謡雑誌『赤い鳥』に戦前発表されたこの歌は、戦後の昭和24年にNHKのラジオ番組「うたのおばさん」で松田トシや安西愛子が歌い、大衆に広まった。昭和27年からは小学1年生の音楽の教科書も掲載されるようになったが、消防庁から「街角のたきびは危険」であるとの批判があり、教科書に掲載する際にはたきびと人物だけでなく、火消し用の水の入ったバケツが描かれるようになったという。
毎年北風が吹くこの季節になるとこの歌を思い出すが、確かに都会ではもうたきびは見られない日本の風景の一つであろう。
平成19年には日本の歌百選にも選ばれている。
父はすでに亡くなっており、巽聖歌とどのような親交があったのかは不明のままである。
写真はウィキペディアより『赤い鳥』創刊号表紙
作詞家の石坂まさを氏に初めてお目にかかったのは17、18年前のことである。紹介者は出版社ゴマブックスの今は亡き羽山茂樹社長であったと記憶している。あるいは羽山社長を紹介したかつての部下のMであったかもしれない。
株式公開を目指していたゴマブックスには友人として出資もしていたが、羽山社長は平成17年1月に58才の若さで突然この世を去った。しばらく連絡が無いと思っていたら、突然、訪ねて来て「会社には内緒にしているが、俺ガンなんだ」と告げられた時には無性に涙が出て止まらなかった。同学年であった。
ところで石坂まさを氏と言えば、藤圭子の「圭子の夢は夜ひらく」で知られる作詞家である。
何度か、世田谷区三軒茶屋のマンションをお訪ねしたが、ある時、戦後の歌謡界でヒットしたしたのは「りんごの歌」であると国民は勘違いしているが、レコードが一番売れたのは、昭和22年に新人歌手の平野愛子が歌った東辰三作詞・作曲の「港が見える丘」であり、横浜の「港の見える丘公園」に歌碑を建立したいので、その手はずを整えて欲しい、と依頼された。建設資金は石坂氏が調達するとのことであった。
ずいぶん見込まれたものだと困惑したが、当時、創刊したての『池袋15’(じゅうごふん)』で「タバコふかして」という連載エッセイを寄稿していただいている義理もあり、仕事の合間に奔走して、なんとか半年ほどかかって歌碑を建立することができた。
苦労したのは公園を管理運営しているのは横浜市だが、土地の所有者は国ということもあり、国の役人と横浜市の役人の両者に交渉をしなければならなかったことだった。
ちなみに歌碑の文字は作詞者東氏の子息で、石坂氏とは同じ作詞同人誌『新歌謡界』出身の作詞家山上路夫氏に貴重な原文をご提供いただいた。
今も、公園の片隅にその歌碑は建っている。
石坂氏は平成25年3月に71才で亡くなり、8月23日には「石坂まさをを偲ぶ会」が都内某所で催されたが、前日に藤圭子が高層マンションから飛び降り自殺したのには、因縁めいたものを感じるのである。
写真はウィキペディアより「港の見える丘公園」
結婚式のスピーチは難しいものである。
立場上、結婚式でスピーチを依頼されることもしばしばあるが、長々と話しては出席者に顰蹙を買うし、短ければ失礼にもなる。
特に新婦側のスピーチが難しい。夫婦平等とはいうものの、やはり新郎の立場を尊重しつつ、新婦の良いところも強調したいと思う。夫婦には何となくつりあいというものがあり、新婦が優位の場合はなおさら気を使う。
そんな時引用することにしているのが、与謝野鉄幹の「妻を恋うる歌」の一節である。
「妻をめとらば 才たけて みめ美わしく 情けある
友をえらばば 書を読みて 六分の侠気 四分の熱」
与謝野鉄幹は明治6年京都府に生まれ、明治33年に歌誌『明星』を創刊。北原白秋、吉井勇、石川啄木などを見出した日本近代浪漫派の中心的な役割を果たした人で、後に慶応義塾大学教授を務め、歌人の与謝野晶子の夫である。
つまり、結婚相手の女性は賢く、美人で、人情味あふれる人が良いということであろう。
スピーチの「落ち」は、新婦はまさにピッタリの女性であると紹介するのである。
11月某日、ロータリークラブ仲間の専門学校を経営するNさんとのスナックの酒席で、やはり、女性を見る判断基準はこの歌であると意見が一致し、女主人の三味線に合わせて「妻を恋うる歌」の5、6番までを吟詠して席を後にしたのである。
写真はウィキペディアより歌誌『明星』を創刊した与謝野鉄幹氏