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- 2022.04.22 Friday
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昭和41年(1966年)4月に愛知大学文学部文学科に入学した。専攻は国文である。国立大学の受験に失敗し、父親のすすめで愛知大学を受験したのだが、なぜ父親が縁もゆかりもない愛知県豊橋市にある愛知大学をすすめたのか理由は分からない。おそらく、当時、私立大学で学費が一番安かったからではないかと想像している。入学するまで愛知大学がどういう大学なのか全く知らなかった。愛知大学が戦前、中国・上海にあった中国統治のための官吏養成を目的とした旧帝国大学の東亜同文書院や元京城帝国大学、元台北帝国大学らの教授を中心に昭和21年(1946年)に創立された旧制大学であることを知ったのは入学してからである。愛知大学の最大の功績は昭和43年(1968年)に戦後初めての簡体字の『中日大辞典』を編纂したことである。日本人のみならず、日本語を学ぶ実に多くの中国人がこの辞典の恩恵にあずかっている。
愛知大学には1~2回生の教養課程と3~4回生の専門課程があったが、数学や英語、歴史といった教養課程の授業は高校の延長のような内容で実につまらなく感じた。大学を卒業してからの将来についても漠然としたもので、どういう職業につくべきかもあまり真剣には考えてはいなかった。マスコミには興味があったので、新聞会に入部した。
ただ、4年間の限られた時間で何が出来るかと考え、1年間で100冊、4年間で400冊の読書をすることと、高校時代とは違って自由な研究である卒論が単位認定されることから一回生から卒論を書き始めることを決めた。卒論のテーマは、国文の資料室で卒業生の研究テーマを全て調べ、競合のない近代作家の正宗白鳥の作家論とすることにした。
しかし、大学の4年間、読書と卒論執筆に明け暮れていた訳ではない。2回生では新聞会の会長となり、愛知大学新聞会が中部地区の幹事校であったことから岐阜大学で開催された全学新(全国学生新聞連盟)の全国大会の議長を務め、学生自治会委員となってからは各地の中央闘争にも参加した。
新聞会のほかにも詩人の北村透氏が主催する「現代詩研究会」や学生仲間の同人誌の発行にも加わり「兄弟を憎む者は暗黒にあり」という小説も発表。朝日新聞中部本社版の文芸時評で「将来の活躍が期待される学生作家が誕生した」と紹介されたこともある。3回生となってからは塾の講師となり、中学生に英語と国語を教えた。
写真:Amazonより昭和43年(1968年)に刊行された『中日大辞典』